まぐまぐ『ガラス玉遊戯』006サンプル  

 


信じる心

私はいつも自転車で通勤していたのですが、ある特定のバス会社のバス
は、クラクションをならしながら、白線より歩道側まで幅寄せしてきた
りすることがよくありました。

いつもガマンしていたのですが、数年前のある日、停留所で停まるバス
を追い越しぎわに「いちいち鳴らすな!」と怒鳴ってしまいました。

そのバスは、再度私を追い越すと、次の停留所で私を待っていて、窓か
ら手を出し、私を呼ぶしぐさをします。
私がそのバスより少し先で止まると、運転手が降りてきました。

私は運転手に、なんでクラクションを鳴らして幅寄せしなくちゃならな
いんだ、と聞きました。運転手は、自転車が車道を走っていると危ない
から、鳴らすのは当然だと言うのです。

もちろん、その後で、バス会社に電話しました。バスの番号はひかえて
あったのです。
私は、外側線と縁石の間は自転車通行帯で、道交法で自転車は道路の左
端を走らなければならないとされていることと、生身の人間に大型車両
で幅寄せして良いかと、乗客を残してバスを降りる運転手がなんでいる
かを問いました。

さて、私が今回申し上げたいのは、このバスの運転手のことではありま
せん。
このバスの運転手が自分が正しいと「信じていた」ということです。

確かに、正常な判断力の持ち主であれば、大型車両で自転車のそばを走
るのは緊張感があるでしょう。そして、バスの運転手として、つまり社
会人として人々から尊敬され尊重されるべきだと思うのも、とうぜんの
ことです。
複数のバスの運転手が同じことをしていたのですから、仲間うちでは、
自転車には訓戒を与えるものという信念が生じていたのかもしれません。

しかし、この二点のみで判断したために、道交法を守るという三点目を
考えることができなくなっていたのでしょう。もしこの道交法を守ると
いう三点目が判断に入っていたなら、無用なクラクションを鳴らすこと
もなく、通行帯を守り、愛される運転手という社会的な地位を、よりい
っそう強めることができたことでしょう。

何かを可能にするには、まず信じなければなりません。証明されてもい
ないこと、具体化されてもいないことを、いずれ証明され、いずれ具体
化されると、信じる必要があるのです。

何を信じるか、どう信じるかの大切さは、ここにあります。

ガラス玉遊戯では、可能性を扱います。そして、多くの場合、作品は可
能性を扱う以上のものにはなりません。証明されもせず、具体化もされ
ない場合が圧倒的に多いでしょう。ですから、作品に論理性に関する反
論をすることは容易ですし、信じるという作業がなければ、可能性は無
価値なものになります。

以前、私は、医学の本を読むことにためらいがありました。人の命にか
かわる現場で、修練を積み重ねた人々が働く物事と思うと、何の経験も
ない自分が触れてはいけないもののように感じたのです。

しかし、では、人の命にかかわる現場で、修練を積み重ねた人々以外に
は、触れてはいけない物事というものは、あって良いのでしょうか?

真剣な心を向ける人々のおられる領域に、尊敬と美とをもって触れるこ
とは、許されないのでしょうか?

可能性に向ける、信じる心があってはじめて、ガラス玉遊戯は可能にな
ります。
そして、ガラス玉遊戯にとって信じる心は、証明や具体化ではなく、人
間の奇跡に向けるものであり、美について報いられるものです。

では、また、次回に。

  

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