まぐまぐ『ガラス玉遊戯』005サンプル  

 


人間に対する尊敬ということ

先日、「岳人」という、山登りの雑誌を読みました。
私にとって、山は、山道のあるファミリー向けのコースを数度のぼった
ことがある程度の経験しかありません。
そのつたない経験から、山の世界を「想像」していくのです。

山登りをする人が、身体の用い方を練習するジムに通い、身体と自分と
の関係、言わば、日々、身体と自分との物語に生きていること。

山登りをする人が、天候や地形など、科学的に解明されたデータにもと
づいて、登山の計画を練る作業、言わば、テクノロジーと自分との物語。

グループに参加する人々のレベルに合わせて、登山の具体的な方法を決
定し、相互に協力しあう、メンバーと自分との物語。

山という自然のなかで、自分の心身をコントロールしながら、自分の存
在を発見する、自然と自分との物語。

これらの物語の中核となっているものは何か、と私は考えました。そし
て、それは「命」であると感じました。
山登りをする人は、自然と自分との間の「命の物語」を生きているのだ
な、と感じました。
おそらく、この「命の物語」は純粋なものでしょう。どれほどの感動を
もった映画でも、この「命の物語」の純粋さにはかなわないでしょう。

命、というかけがえのないものに、純粋な物語が可能なこと。

しかし、私のこれらの考えは、想像にすぎないのです。仮に正しかった
としても、山登りを経験したことのない私にとって、「本物」ではない
のです。

ガラス玉遊戯をやるにあたって、いつもこの「本物でない」が関わって
きます。
ガラス玉遊戯で物理の法則を利用しても、その遊戯者が物理学者でない
かぎり、それは本物ではありません。
ガラス玉遊戯でバッハのフーガを採用しても、その遊戯者が音楽家でな
いかぎり、それは本物ではありません。

唯一、その遊戯が本物にうらづけられるとしたら、本物の物理学者や音
楽家がその遊戯に参加することです。
しかし、本物の物理学者や音楽家とは、本物の遊戯者であれるとは限ら
ないのです。ガラス玉遊戯は、それ自体の芸術であるためです。

こうして、ガラス玉遊戯は、その扱われているものに関して、遊戯です。

しかし、バッハを聴いた人が音楽家でなかったとしても、その感動が
本物であれば、聴いたことは大切なことであったでしょう。
ある心理学者が物理学の進歩に触れ、研究のインスピレーションを得た
としたら、その心理学者は物理学者でなかったにしても、大切な一歩を
進めたと言えるでしょう。

このバッハを聴いた人も、物理学の成果に触れた心理学者も、本物の
音楽家でも物理学者でもありません。しかし、本物でなかったにしても
意味はあったのです。

それは、一人の人間として、自分がどうあるべきかを、感動をもって
経験した、ということです。
言い換えれば、感動をもって、人間としての自分を経験した、というこ
とです。

もし、芸術の性質の一つが、この「感動をもって人間としての自分を
経験する」ということであれば、芸術家は人間というものに接する作業
を創造においてするもの、となります。

ガラス玉遊戯においても、作品は人間にうったえかけるものです。
芸術として、ここのところは本物を目指さなければなりません。

ですから、人間というものへの尊敬の念が必要になってきます。

では、また、次回に。

  

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