まぐまぐ『ガラス玉遊戯』004サンプル  

         普遍的コンテクストと主観的妥当性
         
前回、可能性を考えられるなら、上位の可能性を考えられる、というテ
ーマで話をすすめました。
         
さて、可能性は何らかの手段で具体化されます。例えば、文章で表現す
ることができます。
上位の可能性はガラス玉で表現すると約束しました。
         
ところで、ある可能性が、例えば物理学の定義で具体的に表現されると
します。
すると、ガラス玉で示される上位の可能性は、その物理学の定義の上位
の定義を示すことになるのでしょうか?
         
すると、不都合が起きる、と考えられますね。なぜなら、その場合、ガ
ラス玉遊戯では人類に可能な全ての成果を前提することになってしまう
からです。
         
ではなぜ、上位の可能性をガラス玉で表現してかまわない、と言ってよ
いのでしょうか?
         
それは、ガラス玉遊戯は科学でも宗教でもなく、芸術だからです。
ガラス玉で表現する可能性は、客観的に正しいというのではなく、主観
的に「そう考えてもいいよ」という範囲でしか、物事を扱わないからで
す。
         
もしガラス玉が示す可能性が、必ず起こるという必然性とするなら、全
ての科学のテーマが解決されるとか、神を証明できるとか、できなけれ
ばなりません。
しかし、ガラス玉が示す可能性が、さしあたりそう考えてもよい、とい
う妥当性であるとするなら、調和のみを求める芸術の要求に応えさえす
れば、用はたりることになります。
         
実際、芸術は、客観的必然性ではなく、主観的妥当性で調和をなすもの
です。
         
ところで、文章などのテクストの意味は、文字を用いる以前の思考にあ
ります。この、テクスト以前の意味をコンテクストと言います。
         
ある可能性を示すコンテクストがあるなら、上位の可能性を示す場合、
普遍的なコンテクストがなければなりません。しかし、上述のように、
普遍的コンテクストを客観的必然性で示すとすると、科学のテーマ全て
が解決されたり、神が証明されたりしなければなりません。
         
それで、ガラス玉遊戯では、普遍的コンテクストを、客観的に認めるの
ではなく、主観的に認める、という姿勢で、あつかうことにします。
例えば、「神の言葉による科学の解決というのではなく、全ての科学の
テーマは、それぞれにいずれ解決されるとして、さしあたり仮定して進
めよう。」という姿勢です。
         
人類の全ての文化的資産を用いるとは、普遍的コンテクストにもとづい
て文化的資産を扱うということですが、ガラス玉遊戯では以上のように
「さしあたり仮にそうしておくか」という姿勢で普遍的コンテクストを
認めます。それで、ガラス玉遊戯は、その名のとおり「遊戯」なのです。
また、遊戯の範囲で認められた芸術なのです。
         
普遍的コンテクスト、つまり普遍的意味で遊戯する、理性領域の芸術な
のです。
         
では、また、次回まで。
         

  

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