ブログ記事「ガラス玉遊戯の近未来から、未来と、過去としての現代へと、と。」 から

ヘルマン・ヘッセの小説のガラス玉遊戯の進展と、
私自身のガラス玉遊戯に関する創出の過程を比べると、

小説では象徴であるガラス玉を用いて音楽のテーマなどを試みたとされ、
私は言葉を記号とみなした試行などから最初の図式法を創出し、

小説でガラス玉の遊びの段階から図式法に移行し始めた近未来が描かれ、
私は一般の人々向けにガラス玉での遊び方を提供し始める、

と。

小説での「現代→近未来→未来」の段階が、
私の過程では「近未来→現代→未来」という過程として、
現出してきている。

もっとも、「現代から見た過去」は、小説通り。
「価値の相対化」→「精神への信頼の喪失」
 →「戦争の20世紀へ」
 →「精神への信頼を取り戻そうとする人々
  (初期のガラス玉遊戯探求者)」
この過程は、現実のドイツやアメリカや日本で、
現実の人々がたどっている現実の過程で、
その意味では、私はその一人、ということになる。

もっとも、
ドイツでもアメリカでも日本でも(日本では私)、
ガラス玉遊戯の事業化へと進んでいる。
それは仕方のないことで、なぜなら、

お金は価値の交換の手段として有効なもので
(他、価値の尺度と、価値の蓄積)、
価値の交換の仕組みが無ければ、
価値の伝播が起こらない。

その価値を大切と思うほど、
価値の交換の仕組みを現実にする意味を否定できなくなる。

話しが広くなってきたので、記事としてのまとまりのため、
今回はここまでにするのだけれども、

ガラス玉遊戯は「合目的性から合目的性の過程を軸とする」
との私の判断からは(ヘルマン・ヘッセの言葉では「陶冶」)、
「人であることへの信頼を自らに見い出すこと」が
要素として在り、なので「投資の対象としては馴染まない」と、
私自身が感じることがあり、
そこは「事業の仕組み」と関係すると判断するのだけれど、

記事の最初にもどると、
多くの人々がガラス玉を扱うことから、
ガラス玉遊戯の印象をとらえていくことができるよう、
取り組める段階に来たのは、
良いことと感じている。
 
 
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